打撃改造に踏み切った理由
私が高校球児だった高校2年の夏。
1つ上の3年生が最後の夏の大会を終えると同時に、私は新しいチームの4番になった。それまで5番を任されていたので、それ自体は当然の流れ。4番を打つことに特別な感情は無かった。
そんなことより私には取り組みたいことがあった。それは打撃改造である。
ちなみに私の打率は高校1年が打率3割、高校2年が打率4割。一見すると順調に成長しており、打撃改造など必要なさそうだが、私にはどうしても目指したいバッティングがあった。
それは、低い弾道でどこまでも伸びていくような打球を放つバッティングだ。
私は一度だけ、この目でそんな恐ろしいホームランを見たことがある。
私が目指したバッティング
新チームになる前、4番を打っていた先輩がある試合でホームランを放った。
打った瞬間それと分かる打球だったが、驚いたのその弾道。レフトフェンスを越えても、尚上昇する打球にネクストバッターサークルにいた私は心を奪われた。
私は以後、打者として目指すべきものをこれと定めた。
そんな打球を打つためには、今のバッティングではダメ。打撃改造の必要性を感じたのだった。
打撃改造はマイナーチェンジからフルモデルチェンジまであるが、私は根本からスタイルを変えるフルモデルチェンジを選んだ。
もちろん打撃改造には大きなリスクが伴うことは百に承知。だから高校2年のオフシーズンが最初で最後の勝負だと思い、高校2年の秋の大会終了後、打撃改造に着手した。
打撃改造の内容とは?
打撃改造の内容は、4番を打っていた先輩に監督が指導していた技術をコピーすること。
監督がその先輩に対する指導内容は、他のチームメイトとは異なるものであり、私はいつも聞き耳を立てて聞いていた。
なぜ先輩だけ違う指導内容なのか、私には理解できなかったが、そこに先輩が放つ打球の秘密があると考えたのは、今考えても自然の流れだったと思う。
改造した内容を簡単に説明すると、トップに入ったときにヘッドが投手に向かないようにすること。
極端に言えば、ヘッドが捕手側に向いた状態でトップを作ることだ。
これにより、スムーズにバットを出すことができ、ヘッドスピードが速くなり、ボールにバックスピンをかけ易い打ち方になる、と私は考えた。
当時の私はそう考えましたが、この考え方は全く間違っていました。技術的な理由は以下の記事に詳しく書いていますので、ご参考に。
誰よりもバットを振った高2の冬
高校2年のオフシーズンは徹底的にバットを振った。恐らくチームメイトの中で一番振ったと思う。
それどころか、人生の中で一番バットを振った時期と言ってもいい。
部活の練習中にやる素振りなんて、1日にやる素振りのほんの一部。本番は家に帰ってから。もちろんチームメイトに打撃改造のことは黙っているので、誰も私がこんなにバットを振っているなんて知らなかったと思う。
強制的にやらされる練習を努力と称するなら、私は努力は嫌いだ。
しかし自分が決めた目標に向かって努力することは、そんなに大変なことじゃない。
理想の打球が打てるようなる、と考えると何回バットを振っても苦でないのだ。
無常にも、打撃改造は失敗した
年が開けて春になると、ようやくグラウンドでの練習が始まった。
不安と期待を胸に・・・と言いたいところだが、正直期待感しか持っていなかった。
努力は決して裏切らないと言うし。
しかし期待とは裏腹に、なかなか調子が上がってこない。
タイミングの取り方も変えているので、ある程度の期間は苦しむだろうと思っていたが、1ヶ月経っても調子は悪かった。
色々と微調整したが全く効果なし。4月下旬に行われた春の大会を終えても調子が上がらなかった。
この段階になると、私だけでなく監督・コーチも焦ってくる。
もう夏の大会が目前なのに、4番を打つ選手がしっかりしないとチームが落ち着かないからだ。
私はこれまでの結果とこのタイミングを考慮し、打撃改造の失敗を認めて諦めることにした。
戻らないバッティング
打撃改造に失敗した私は以前のバッティングフォームに戻した。
しかし調子が上がってこない・・・
一度壊したバッティングフォームは中々戻らない、と聞いたことがあったが、まさかこんな時期に体験することになるとは。
私に対する監督のバッティング指導も日に日に激しくなっていった。昔はこう打っていたぞ、と。
それでも私のバッティングフォームが元に戻ることはなかった。
私には進む道も無ければ、戻る道も残されていなかった。
幸い・・・、いや皮肉にもと言うべきか、このチームには私以外に4番を打てる選手がいなかった。
それ故、試合では4番を外れることなく起用された。それはそれで苦しく、正直に言えば早く4番を外して欲しかった。
打撃改造に挑戦しなければ・・・と後悔したのは言うまでもない。
野球の中で、一番の得意分野だったバッティングを失った私に何が残るのだろう。それどころか、野球部で3年間培ったバッティングに対する努力は何だったのだろう。
ある期間でも打てていた時期があるだけマシだとも言えるが、それは単にマグレだったのだろうか?
部活の練習を終えて、毎晩そんなことを考えていた。
そんな私にとって高校3年の夏の大会は、こんな状況を象徴する結果となる。
夏の大会がはじまる1週間前、練習中にボールを右手に受け、人差し指の爪を剥がす怪我を負ってしまったのだ。キャッチャーだった私にとって致命的な怪我。
監督からは『ベスト16から、怪我がどんな状態でも行くぞ!』と言われ、チームはそれまでは4番を欠いた状況で戦うことになった。
そんな状況で迎えた二回戦は、決して強くない相手であったが、序盤の拙攻がたたり延長戦へもつれる接戦に。
急遽、私も試合に出ることになったが、悪い流れは断ち切れずサヨナラ負け。
天を見上げると、真夏には相応しくない、どんよりした天気だった。この試合結果や、それに至る状況を表している空だった。
挑戦したことは間違いではなかった
高校3年の打率は.270くらい。一年前が4割だったので、1割以上打率を下げたことになる。
それでも、この成績を見たとき『そんなに打っていたかな』と思ったくらい。それくらい試合で打った記憶が無い。
おそらく、納得いく打球をあまり打てていなかったからだと思う。
順調だったバッティングを壊して、新しいバッティングに挑戦したことは間違いだったのか?と振り返ると、決して間違いでなかったと思う。
仮に、また同じ状況でやり直すことができたとしても、きっと同じ道を選ぶだろうし。
結果的に失敗したが、それは知識や技術が不足してことが原因。挑戦したことが失敗ではない。
実際、大学に入ってバッティングを再構築した結果、高校1年~2年に打てていた要因と、打撃改造した高校3年に打てなかった原因が理解できた。
結果的に、高校時代に体験した成功と失敗があったからからこそ、バッティングについて深く考えることができたと思っている。
努力がすぐ実を結ぶとは限らないが、そう簡単に裏切るような努力も無いと私は思う。