教師の『質』とは?
よくメディアに『教師の質が下がっている』という記事を目にかけます。本当なんでしょうか?
色々な考え方があるようですが、『教師の質』を客観的に評価する指標をあまり見かけません。
<低くなったと考える人>
・高度成長期やバブル期は公務員より民間企業の方が給料が高く、進んで教師=公務員になる人は、本当に先生になりたい人が多かった。
・今は先生になりたくてなっている訳じゃなく、公務員になりたい人が増えた。
・教員採用試験の競争率が下がり続けている(平成12年がピーク)。人材不足により質が低下するのは当たり前。
<高くなったと考える人>
・日々、教育に対しても研究が進んでいるので、昔よりも高くなるのは当たり前。
・懲戒処分を受けた人数は減少傾向にあり、質は高まっている。
このような意見が多いようですが、具体性に欠けるように思います。
結局『質』と言っても、大衆による客観的な評価が決め手になるのではないでしょうか?
特にニュースなどで報道される教師がらみの事件・事故は印象に残りやすいので、質の低下をイメージし易いかもしれませんが、『教師』というより『人間』の質の問題なような気もします。
私も小学生の子供がいるので分かるのですが、どうしても教師を『昔と今』で比べようとします。『昔=自分が子供の頃の先生』であり、『今=自分の子供の先生』です。
また、自分の子供の先生は『親』としての評価ですから、『自分が子供の頃の先生』とは感じる角度が違います。
教師も『生徒の保護者』として接するので、自分が子供に感じた『先生』とは違いますしね。
いずれにしても、個人が体験したことと、報道などから感じる客観性で『質』が評価されるのでしょうね。
現状はコンプライアンスに必死
私が自分の子供を通じて感じることは、『コンプライアンスに必死』ということです。
特に体罰に関してナーバスになっていると感じています。
もちろん、中学校や高校の教師でも違いはあると思いますが。
あとは、昔に比べて『変わった先生』が少なくなった気もしますね。
昔は沢山いたような気がします。
まぁ、これも親の立場だと学校にいつもいる訳じゃないので、感じ辛い面もあると思いますが。
私が中学生の頃に、とんでもない教師がいました。
その教師は野球部の副顧問だったのですが、体罰と言う名の暴力が酷く、みんなに恐れられていました。
当時は、体罰に寛容な時代でしたが、それでも常軌を逸していると感じていました。
ある日、部活が終ってグラウンド整備をやっていると、その教師がグラウンドに車で入ってきたんです。
そして内野と外野の中間辺りで、なんと『ドリフト』を始めたんです。
ドリフトを終えると車から出てきて『ちゃんと整備しとけよ!』と言い放って、帰って行きましたが、我々は唖然としました。
まぁ、今ならニュース沙汰になっているような気もしますが、当時でも異常だと思います。
中学生でもそう感じましたから。
人によって受けるイメージが違う
小学校で漢字のテストがあるんですが、採点する先生によって甘かったり、厳しかったりします。
以前、同じクラスの保護者と先生の採点の話題になったんですね。
その方は『この先生は採点が厳しいですね』とおっしゃいました。
私はちょっと驚きました。
私は『甘い』とは感じても、決して『厳しい』とは思っていませんでしたらから。
これは私の感覚が正しい、正しくないということではなく、保護者個々においても感じ方が違うということなんですよね。
まして『教育』となると、考え方が違うことも珍しくありませんので、教師に対する要求や客観的な評価も変わると思います。
『観察』出来ているとは感じない
いじめなどがニュースに取り上げられるたびに感じますが、おそらく子供の様子を『観察』出来ていないと思います。
子供の様子が変化したことを捉えられていない、正確に言えば感度が鈍いと。
何事もそうですが、変化を捉えるには『平常時』の観察が必要になりますので、結構大変なんです。
誰しもが感じる変化があってから『変化を感じた』と言っても遅いです。
少なくともプロじゃありませんね。
平常時の様子は、授業を受けているときの様子だけを見ていても足りません。
時には休憩時間や、昼休みに友達と遊んでいる時間の様子を観察することも必要です。
そういったことを積み重ねるからこそ、わずかな変化も気付ける感度は養われると思います。
それは親も同じで、日常生活における変化を感じるには、日頃から観察することが大事だと思っています。
普段の挨拶や食事の仕方でもかまいません。別に言葉だけがコミュニケーションじゃありません。
人と人が触れ合う機会が減ってきている現代において、教師に限らず『人を観察する能力』が低下しているのは間違いありません。
でも、少なくとも教師や親は子供を日頃から観察して、変化を感じる能力を高めなければいけないと思っています。