前回の記事(体罰の定義と必要性。部活動における体罰は効果があるのか?)で、私が高校球児のころの体験を書きました。
ついでに、私の球歴について書きたいと思います。
プロフィールの続きのような感じで、読んで頂けたらと思います。
小学校4年生のとき、地元の少年野球チームに入団
全く野球に興味の無かった私は、仲の良かった友達に誘われて、チームに入りました。
入る前は、ゴムボールで遊びの野球はよくやっていましたので、あまり違和感なくやっていたと思います。
やっているうちに野球が好きになった感じです。
別に速い球を投げる訳でもなく、ホームランを連発するような打者ではなかったのに、です。
何となく、競技性が性格に合っていたんでしょうかね?
ポジションはサード。6年生のときの打順は1番。
中学校では迷わず野球部へ
中学校は迷わず野球部へ入部しました。
当時、周囲の中学校に比べて、ガラが悪く、怖い先輩方が多い野球部でしたが、私は野球が毎日できる喜びが大きかったです。
当時、新入生はボールに触らせてもらえませんでした。
キャッチボールすらさせてもらえません。
先輩がキャッチボールをしている後ろに立って、『カバー』の役目をするんです。今から考えたら、ものすごく非合理的ですね。
先輩のキャッチボールが終ると、バッティング練習。
キャッチボールをしていた相手同士でバッティングを始めるんですが、当然、球拾いです。
打球も四方八方から飛んできますので、危ない環境でした。
最後は守備練習。先輩は各ポジションでノックを受けるのですが、新入生は声だし。
ひたすら声だし。先生や先輩の機嫌が悪いと、なぜかマラソンを命じられます。
しかし、私は野球好きだったので、それほど苦になりませんでした。
例えば、キャッチボールのカバー役のときは、下手な先輩の後ろに立って、守備練習のつもりでやっていました。
下手な人は暴投や捕球ミスが多いので、ボールに多く触れますからね。
バッティング練習のときは、逆に、上手い先輩が引っ張っぱる打球が飛んでくるところに、守っていました。沢山、打球を処理したかったので。
でも、これらは私が特殊で、普通は嫌になってもおかしくないと思います。単なる雑用と言えば、雑用ですからね。
ポジションは1年生後半からサードのレギュラーになる。
3年生のときにピッチャー(一応エース)。
そして、キャプテンになってしまう。
打順は3番。
高校合格発表時、監督からの伝令
高校の合格発表を見に行き、合格を確認すると、ごつい先輩に声をかけられ(××だよね?と)、野球部の監督の元へ。
『入部するよな?』と当然のように言われ、硬式ボールとバットを手渡されました。
監督曰く『春休みに練習をしておくように』とのこと。
まぁ、最初から野球部に入部する気でしたので、あまり気にしませんでしたが。
1年生のときの夏の大会後、センターでレギュラーに。
この時期、正捕手の先輩が試合で怪我をし、代役でマスクをかぶりました。
その試合でのプレーが評価され、先輩と入れ替わるようにキャッチャーになりました。
このときは下位打線を担当(打順は6番~8番で日によってまちまち)。
2年の春に打球が遠くに飛ぶようになり、5番へ昇格。3年のときは4番。副キャプテンになってしまう。
甲子園には行けず、ベスト8がやっとでした。
大学では初めての全国大会へ
大学に入ったときは、野球部へ入るか入らないか、非常に迷いました。
高校での体罰に辟易していたことが一番大きな理由です。
しかし、見学に行って体罰が無いことが分かりましたので入部を決意します。先輩や同級生には、甲子園に出場した、すごい球歴の人もいました。
1年~2年春はファースト。打順も下位打線が多かったです。
2年夏からはキャッチャーへ。打順も5番に昇格。3年夏から引退まで4番を打ちました。
メンバーにも恵まれ、全国大会へ2度出場します(ともに一回戦負けでしたが・・・)。
これらの大会には、将来プロへ進む選手もいましたので、強く印象に残っています。
大学院、社会人時代
大学卒業後は大学院に進学し、いくつかの草野球チームで、まったりと野球をさせてもらいました。
数年目に草野球チームが解散し、それ以後はやっていません。
でも、子供と公園に行ってキャッチボールをやったり、バッティングセンターに行ったりすると、たまには試合をしたいなと思ったりします。
チーム解散前にキャッチャーミットを2個も買ったのに、未だに新品のまま眠っています・・・